Designing Humanity

京都工芸繊維大学に新しくできたKyoto Design Lab.のオーブンミーティング、Designing Humanityに参加してきた。

Kyoto Design Lab.は、社会の課題の発見と解決に取り組むインキュベーション組織。今回のDesigning Humanityは、昨今のAI化が進む中で人間性とは?を改めて問い直すオープンミーティング。

4つのテーマに基づいて、それぞれのスピーカーが約1時間に渡って問題提起し、それに応える形で参加型の討論が行われた。

13時から19時まで、6時間に渡る長丁場で、それぞれのテーマも1時間で語りきれないボリュームだったので詳しいことはここでは語れないけれど、なかなか聞き応えのある内容だった。参加していたスピーカーも、キュレーターやプランナーに加えて元引きこもりでホームレスの批評家やタトゥーの彫り師をしている美術家、不登校で中卒ながら起業した人などおもしろい方々が揃っていた。

一発目のテーマの途中で「つまんないんだよ。ここにいる人は、あんたの学生じゃないんだから」とスピーカーに噛み付いたおじさんがいたと思ったらDRAFTの宮田さんだった。

オープンミーティングだったから、参加者は自由に討論に参加できるんだけど、学生さんや若い人から積極的な意見が出されていて、若いのにしっかりしてるなー、と感心してしまった。

なかでも「機械に人は救えるか?」というテーマは、死にたいと考える人を救いたいという思いをもとに死という誰もが抱えるテーマを深掘りしていて、病気を経験した自分にとっても興味深いものだった。基本的には自殺をテーマにしているんだけど、自殺志願者が相談窓口に電話しても、受け手側の人手不足でなかなか繋がらない現状があるらしい。AI化が進んで、人工知能が人に取って代わろうとしている現代において、もしAIが人の代わりに悩みを聞くことができれば、少しでも人を救えるんじゃないか?みたいなことを発端にしているが、詰まる所は、なぜ死にたいと思う人が減らないの?、少しでも死にたいと思う人を救うにはどうすればいいの?、といった結局のところは「人= Humanity」に直結するんだと思う。

この議論は今後も飲み屋という場所を変えて引き続きオープンに続けていくということだったので、またぜひ参加したいと思う。


見立て、しつらえる

日曜日に堀江を歩くのは何年ぶりだろう。昔はこの近くで働いていたから、馴染みの風景だ。堀江公園を過ぎて、オレンジストリートの方へ向かう。なにわ筋を超えて少し入った通り沿いにそれはあった。

西天満にcredenzaというショップがある。オーナーの堀さんがセレクトしたセンスのよい雑貨や器、家具などが並ぶお店だ。そのcredenzaのポップアップストアが堀江の美容院の一角に展開されている。セレクトという言葉が好きではないという堀さんが、まさに「見立て、しつらえた」空間。

堀さんの考え方が好きだ。有名だとか無名だとか、古いとか新しいとか、そういう垣根を全て取り払って、堀さんが見立てたよいものが丁寧に空間にしつらえられている。僕自身が昔そうだったように、そしてデザイナーやブランドや作家ものが好きな多くの人がそうであるように、自分という尺度でフラットにものを眺めることのできる人は意外と少ない。その道を極めれば極めるほど、視界が狭くなる人も多い。

一見人付き合いが苦手で物静かに見える堀さんだが、話だしたらその熱い思いは留まることを知らない。店に着いてからの約2時間の間、時間が経つのも忘れるほどに話をした。

最近行けてなかった骨董市にも、また行ってみたくなった。「見立て、しつらえる」は14日まで。


house / atelier I

木村松本建築設計事務所さんのオープンハウスへ。

交野市の静かな住宅街に全面ガラス張りのファサードが開放的な外観が現れる。

独り住まいの作家さんのアトリエ兼住宅。道路に対して平行四辺形の形をしたその住宅は、潔いほどの構造現しの建築である。構造に最低限の仕上げの壁と余計なものを極限まで削ぎ落とした照明や水周りの設備。ローコスト住宅などとは決して一括りにできない、住まいとは何かを感じさせる、暮らしという人の営みを感じさせる住宅だ。

平行四辺形という形状に住宅を真っ二つに斜めに分ける階段は、空間を柔らかに分断し、空間に広がりを感じさせながら、決して狭さを感じさせることがない。

1階の奥に水周りをまとめ、浴室からは京の町屋のような庭園を眺められる。2階には茶室も設けられ、和と洋の空間が違和感なく交差する。

すでにお施主さんがお住まいの住宅は、無造作に置かれた家具や本や観葉植物などが空間にうまく馴染み、生活感が溢れるわけでもなく、スタイリッシュでもなく、絶妙に居心地のよい空間となっていた。

やはり、住宅は人が住むことによって育っていくのだ。住めば住むほど、住人の色に建築が染まっていく、そんな空間だった。


ソファがやってきた!

ソファが好きだ。

輸入家具の仕事をしてる時からソファが好きで、普通、家具好きはイスへのこだわりが強いが、僕の場合はソファだった。特にイタリアのブランドのソファが好きで、いつか自宅にお気に入りのソファを置くのが夢だった。

とはいえ、50万以上もするブランド物のソファなど買えるわけもないので、自宅では無印良品のソファを使っていた。しかし、かなりカバーも汚れ、クッションもへたれてきたので買い換えることに。

ちょうど20%オフセールをやっていたIKEAへ向かう。サイズ、価格、座り心地を確かめる。2〜3年前の自分では考えられないが、デザインは二の次だ。一番気に入ったのはTIDAFORSというシリーズ。ちょうどいい大きさで、座った時に体が包まれるよう。頭まで支えてくれる高めの背もたれ。体のラインに合わせて変形する形状記憶クッション。腕や頭を乗せても気持ちのよい大きめのアーム。デザイナー曰く、最高の座り心地を追求して作ったソファとのこと。まさに、人をダメにする2シーターソファ!

ところが、である。TIDAFORSを家に置いたところ、とにかくデカい!IKEAで見た印象と全然違う。しかも、新品のソファのクッションは固くて、あの包み込まれる感じはない。IKEAに置かれていたソファは、いろんな人が座っているから、クッションが柔らかくなっていたのか。。。まあ、慣れるまでしばらく我慢だ。

IKEAのソファは、基本とにかくデカいのだが、あの広い空間で見ると小さく見えるので、買われる方はお気を付けください。


metabolism

Glyph代表であり、コレクターとしても有名な柳本浩市さんの訃報から1週間近く経ちました。
昨日が通夜、今日が告別式だったそうで、FacebookやInstagramのタイムラインには柳本さんの急逝を惜しむ声があふれていました。
僕が柳本さんのことを知ったのは、デザインが好きな友人と情報交換をしている時に、柳本さんのブログ、metabolismを教えてもらったのがきっかけでした。
柳本さんは、その莫大なコレクションやあふれんばかりの知識で数々の伝説を作っている方ですが、その考え方は非常にフラットで、僕のようなものでもブログにコメントをさせていただいた時には、丁寧に返信をくださいました。僕のデザインに対する考え方の基礎はmetabolismで養ったと言っても過言ではないのですが、僕が柳本さんのブログを読むようになってからすぐに、残念ながらブログを書くのをやめられました(このころから、ブログではなくFacebookに移行されたようにも思います)。
数々の伝説の中でも、「柳本さんは1日1時間しか寝ないらしい」というのは有名な話で、確かDESIGNEASTで誰だったか忘れましたが、柳本さんと同じ部屋で泊まる機会があった時に、「今日こそ柳本さんが寝る現場を押さえてやろう」と寝ないで頑張っていたのですが、どうにも睡魔に勝てなくなって、一瞬意識が飛んだ瞬間、フッと柳本さんを振り返ると、「今、寝たよね?」と突っ込まれたという話を聞いて、ゲラゲラ笑ってしまいました。
本当に、ウソでしょ?という噂が実は本当なんです、というところが柳本さんのすごいところで、しかも、他の人だったら疑ってしまうことでも、柳本さんだから信じてしまうところもすごいと思うんです。
きっと、柳本さんが1日1時間しか寝ないという噂も本当で、だから46歳という年齢はあまりにも早すぎるんだけど、きっと誰よりも濃密な時間を過ごしてきたんだと思います。
どうかこれからは、1日1時間と言わず、ゆっくり休んでください。
ありがとうございました。

http://metabolism.jugem.jp/


Design&Craft

昔、ヘヴィメタルのバンドを組んでた頃に、「ヘビメタとパンクの違いが分からん」と言われたことがある。
僕は、「ヘビメタは曲から作る。パンクは歌詞から作る。」と答えた。この回答があっているかどうかは定かでないが、ヘヴィメタルが曲の展開に重きを置いているため度々クラッシックと比較されるのに対して、パンクはメッセージ性が非常に強い。
僕の周りにはデザインが好きな人やクラフト(作家もの)が好きな人がたくさんいる。デザイナーと作家の違いは読んで字のごとくで、デザイナーはデザインする人、作家は自分で作る人だ。東屋などでデザインを手掛ける猿山修さんは、デザイナーでありながら非常に作家的な作品を生み出す。単純にスタイリングをデザインするだけでなく、どこで(地方の産業とか)、誰に(作家や職人など)作ってもらうかまでをデザインしているからだろう。これは誰々がデザインしたからとか、どこの窯で焼かれたとか、どこどこの作家さんの手によるものだとか、そんなカテゴライズをぽーんと飛び越えた潔さがある。
ヘヴィメタルもパンクも、音楽という意味では共通だ。もともとロックとは自由の象徴のはずなのに、どうして人はこうもカテゴライズしたがるのだろうか?


bollard

岡山県の宇野港にbollardというお店がある。
こちらのウェブサイトがなかなかおもしろくて、「読み物」と「品物」をテーマにして、販売している商品についても、「商品説明」ではなくエッセイのように商品にまつわる背景などをつらつらと書き綴っていらっしゃる。
読んでいて面白いので、ほうほうと頷きながら、思わず「カートに入れる」ボタンをポチッと押してしまいそうになる。
僕がやっているサイトでは、扱っている作品についてくどくどと説明することを良しとしていない。以前、デザインが大好きだった頃、物と対峙する際に、「デザイナーは誰か?」、「ブランドはどこか?」、「グラフィックは誰がやっているのか?」といったことが気になってしまい、フラットな視点で物を見ることができなくなってしまったのである。
だから、僕のサイトで紹介しているデザイナーさんは、僕が好きなデザイナーさんで、それ以上でもそれ以下でもないし、ウェブショップで扱っている骨董も、僕が好きなものを扱っているにすぎない。
商品の説明を求められることもあるので、その時は、なるべく丁寧に説明をしようとは思うが、僕の説明とは関係なく、余計なうんちくは抜きにして、感覚で買って頂ければと思う。
ウェブショップのため、実際に見て、触れていただけないのが辛いところなのだが。
bollardさんは、その点、お仕着せな説明でなく、それでいて商品の魅力を丁寧に説明してくれていて、見習わなければと思った。
(画像はbollardさんのサイトから借用)

bollard.jp


 

DesignとRock

僕が洋楽を聴くようになったのは小学校の5年生の頃だった。
ちょうど今、息子が5年生だから、ニンテンドーDSで嵐なんかを聴いている息子と比べると、随分ませた小学生だったと思う。
洋楽を聴くといっても特に好きなアーチストがいるわけではなく、兄が聴いていたビートルズなんかをいっしょに聴いていた程度だった。
本当に洋楽のRockに目覚めたのは、ベスト・ヒット・USAでKISSを見た時だった。ジーン・シモンズの斧型ベース、エース・フレーリーの光るギター、奇抜なメイクに奇抜な衣装、それでいて、音楽はキャッチーなRock'n Rollで、一目見て虜になった。
KISSを皮切りに、いろんなRockを聴くようになり、高校生でバンドを組んだ。学生の頃にはオリジナルをやって、難波のベアーズに定期的に出演した。
音楽にのめり込むと、例えば日本の歌謡ロックや洋楽のキャッチーなPOPSでは物足りなくなってくる。耳がすぐに慣れてしまって、つまらなくなり、より複雑な音楽を求めるようになる。そうなると音楽を「体感」することなく、「耳」と「頭」で聴く様になってしまう。だから、自分の周りには「評論家」が多かった。
本来、音楽に「いい」「悪い」、「優れている」「劣っている」というものはない。ももいろクローバーZの歌に励まされる人も、坂本龍一の曲に耳を傾ける人も、全く違いは無いはずだ。
Designにも同じことが言えると思う。そもそも、どんなデザインであっても、誰のデザインであっても、結局は、本人にどれだけ響くかが大事。先日、義理のお母さんが数十年ぶりにダイニングのセットをニトリで買って、うれしくて僕に自慢してきた。ダイニングチェアがクルクル回ると喜んで話した。正直ダサいダイニングセットだった。しかし、その人にはその人の価値観があって、それを、いいとか悪いということは無い。
デザインの世界でも建築の世界でも陶芸の世界でも、その道に長けた人ほど、僕がKISSのPVを始めて見たときのような「うれしい」とか「楽しい」といった気持ちは忘れてしまうんじゃないかな。


美の法門

大阪民藝会館で開催されている「BLUE&WHITE 藍と白の美」に行ってきた。
その中で「みんげいゼミ」というのがあって、今日は「柳宗悦と『美の法門』」というゼミだったので予約していた。講師は富山県のお坊さん。どうやら、柳宗悦にゆかりのあるお寺の住職らしい。
念のために説明しておくと、柳宗悦はバタフライスツールなどで有名なデザイナー、柳宗理のお父さん。日本で民藝運動というものを広めたお方だ。
正直、話は難しかった。話の内容は難しくないが、話に出てくる思想が難しい。民藝の思想は仏教の思想に根付いている。この世に完全なものなどなく、全てが誤り(不完全なもの)なのである。しかし、同時に誤ったものも存在しない。誤ったものも仏に受け入れられるので誤りではないのだ。故に、誤りを取り除いて完全になることなど人間にはできない。しかし、ありがたいことに秀でたものは秀でたままに、劣るものは劣るままに全てが美しいと受け入れられる。
それだから、美醜の分別を超える必要があると柳宗悦は説く。古代ローマ時代から、人々は「美」を追い続けてきた。美しいものが良いとされ、醜いものは悪いとされてきた。しかし、仏教の世界では、美醜の区別なく平常であることが必要であるとされている。その為には赤子のように素直であり、無垢でありたいと。
このあたりに来ると、宗教的な考えが色濃くなり、最終的には無我の境地になることで、本当の美に到達するのである。
正直なところ、今の自分にはよく理解できないが、今だからこそ、柳宗悦の民藝の考え方を見直すべきだと思う。
とりあえず、「美の法門」の本を読んでみたい。


DEMODE DOUGUYA

東京にDEMODE DOUGUYAというアンティーク・ショップがある。
最近は、もっぱらアンティークや骨董に興味や関心が移っているが、本当にいいアンティーク・ショップは少ない。東京に行った時にたまたま見つけたのがDEMODE DOUGUYAだった。店構えからして、ただならぬ雰囲気を醸し出しているが、中にディスプレイされているものも期待を裏切らない。なんといっても本物なのだ。最近は、アメリカのヴィンテージなどの少し古いもの(30〜40年前)を扱う店や、アンティーク風などのエイジング加工がされたものを扱うショップが多い中、DEMODE DOUGUYAは本物だった。はじめは中世のヨーロッパのアンティークかと思いきや、実は日本の明治〜大正のアンティークを扱っているらしい。とにかく、ハズレがない。
東京にはなかなか行けないので、たまにウェブショップを覗いているが、先日、いい感じのベンチを見つけた。13,000円と安かったので、あまり古いものではないのかもしれない。しかし、木の風合い、脚の独特の組み方は絶妙だ。
今は猫の額ほどの庭先に置いて、ただ座って庭を眺めながら、静かな時間を過ごしている。


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