謎のアイデア集団の巻第2話

ほんでもって、謎のアイデア集団の話。2回目。今日は、どういうワークショップだったかを書こうと思う。

最初に松倉さん(株式会社ぬえの代表であり、このワークショップの主催者)から、アイデアの出し方について説明がある。アイデアの出し方、誰でもアイデアを出すことができること、アイデアを出し合う時のポイントなど。ひと通り説明が終わると、さっそく今日のテーマの発表。プロジェクターに数字が現れる。6420000トン。これがなんの数字かというと、年間に日本で廃棄される食料品の数字。飢餓で苦しむ人々のために世界中から援助される食料品が年間320万トンだから、その倍近くの食料品が日本では捨てられていることになる。これは、世界ワースト1位らしい。今回のワークショップのテーマは、日本の食品廃棄率を下げる方法を考えてください、という内容。

まずはマインドマップを作成する。真ん中に「食料」と書いて、それから連想されるキーワードを数珠つなぎで書いていく。思いついたらどんどん書いていく。例えば、食料→ファミレス→禁煙席→タバコといった感じ。今度は「食料」と対極にあるキーワード、「飢餓」のマインドマップを作っていく。

次にマインドマップで出てきたキーワードをつないで、新たな気付きを得る。アイデアに興味のある人が集まっているだけあって、さかんに意見が出る。僕は、すぐに意見を出せないタイプだと気付かされた。他の人が言った意見に対し、その意見をよく咀嚼して考えてしまう。否定するわけではなくて、その人がなぜ、そのような意見に至ったのか?、その人の意見は、どのようなことを意味するのかをじっくり考えてしまう。次々と意見を出すみんながすごいなと思う。そういえば昔からそうだった。小学校、中学校の時も、みんながAだ!と言ってる時も、ほんとにAだろうか?Bの可能性はないだろうか?と考えてしまう癖があった。中には、すぐにスマホで調べて意見を言う人もいる。そういう時代だなぁと思った。

最後にチームで意見をまとめてアイデアシートを作成し、気に入ったアイデアシートにシールを貼っていく。たくさんシールを貼られたアイデアを順番に順位を付ける。僕は野菜くずで美味しい料理を作ってくれるお店、というアイデアがいいな、と思ったけど、シールが集まったアイデアは、無駄にした食品の量だけの化石が家に届く、とか、お腹がいっぱいになった人にしか聞こえない音楽が聞こえる、とかだったけど、僕の中では、これらはないな、というアイデアだった。性格がマジメすぎるのだろう。アイデアが面白いかどうかではなく、そのアイデアが効果があるかどうか?を考えてしまう。僕は以前、アイデアは国民を救えるか?というブログを書いたけど、アイデアは直接問題解決するのではなく、気付きを与えることが大事だと松倉さんは言ってた。

おもしろい!と思えることは大切。それがきっかけで気付きを与えるから。でも、僕は目の前の問題を解決したい。マジメか!


謎のアイデア集団の巻

今日は待ちに待った松倉さん主催、謎のアイデア集団ワークショップの日。

謎のアイデア集団のことは、以前ブログでも書いたけど、プランナーの松倉さんがみんなでアイデアを出そー!って呼びかけたら80人くらい集まっちゃったってプロジェクト。僕も仕事で活かせそうだし、自分を変える刺激になれば、と思って参加することにした。

楽しみにしてた筈が、先週くらいから、また鬱の症状が、、、。一昨日くらいまで、行くかどうか悩んでたけど、直前に復活した。

今日のワークショップは、50人くらいの人が集まるとのことで、場所は、パナソニックさんがWonder Labという空間を提供してくれた。このWonder Labってところが超イケてて、パナソニックすげー!ってなる。やっぱり大企業は違う。

基本、人見知りなんで緊張してたけど、松倉さんの名刺交換とか自己紹介とかメモとかいらないですよー、って呼びかけに一気にハードルが下がる。いざ、ワークショップが始まって、みんなでいろいろ意見を出し合う状況になって、あわわってなる。自分の声が聞こえてないから、発言できない。。僕は5年前に甲状腺がんになって、その影響で反回神経麻痺と言って、声帯を動かす神経が機能してないのです。居酒屋とかファミレスなんかのガヤガヤしたところでは、僕の声はほとんど聞き取れません。みんなでアイデアを出し合ってる時も、途中からどうやってみんなとコミュニケーション取ろうか?ばかりが気になって、アイデアどころではない。そういえば、ものづくりセッションの時もそうだった。自分からプレゼンさせてくださいー、と言っときながら、いざプレゼンが始まるとマイクを通した僕の声はほとんど聞き取れないようで、場の空気が凍りつくのを目の当たりにして、顔から火が出る思いだった。いつも、そう。いろいろ言いたいことがあって、みんなに喋ってるイメージを浮かべるけれど、結局聞こえなくて、その状況にブルーになる。みんな、聞こえてるよー、とか声が出ないくらいなにさ!って気休め言ってくれるけど、当の本人は辛いのよ、ホント。

愚痴や弱音吐いてゴメンよ。でも、どこかでガス抜きしないともたないんよ。松倉さんが今後の話をしていて、基本はFacebook上で展開するみたいなことを話していたので、少し安心する。正直、毎回こういう感じだと、毎回自己嫌悪との闘いになるので自身なかった。

病気になってから、人が集まるところは避けてきた。でも、自分が興味のあるところには、どんどん出ていかないといけないと思ってる。声が出ないことはビハインドだけど、声を出さないといけない状況でいかに自分を表現するか?は、これから自分が向き合っていかないといけないテーマだと思ってる。この状況に慣れていかないといけないし、自分が変えていかなくちゃいけない。

声が出ないアイツが一番発言してる!そう思わせるような自分に変わるんだ。




節煙のすすめ

1年ほど前からアイコスを吸っている。

実は30歳くらいの時に一度煙草は「やめた」のだけど、また吸い始めてしまった(正確には「やめた」わけではないのだけれど、ここでは話がややこしくなるので便宜上、「やめた」と表記しておく)。煙草を吸い始めたのは17歳の時、当時髪を肩まで伸ばした暑苦しいヘビメタ男子で、Rockといえば酒と煙草という感じで、軽音楽部の周りのツレとつるんで学校の近くの田んぼのあぜ道やプールバーで煙草をふかしていた。

煙草をやめようと思ったのは、特に理由はなかったのだけれど、当時は1日1箱くらい吸っていたので、急にもったいないと感じて、煙草代を本やCDに使うことにした。10年以上吸っていた煙草だけど、以外とあっさりやめることができた。当時、笑っていいともを見ていたらタモリさんが、煙草を吸いたいという欲求は十数秒しか続かないから、その十数秒を我慢すれば煙草はやめれるという話をしていた。僕は実際、この方法で煙草をやめた。煙草を吸いたいと思ったら他の事を考える。そうすると確かに吸いたいとは思わなくなった。

煙草をやめるコツは、「やめる」と決めないこと。僕の場合は、やめることを誰にも言わなかった。吸いたくなったら吸えばいいくらいの感じだった。「やめる」と決めてしまうと、我慢できなくなった時に、「あー、ダメだ、禁煙やめた!」となる。選択肢が「吸う」か「やめる」かの二者択一になる。「やめる」と決めるから、かえってやめれない。実際、僕は基本的には吸ってなかったが、飲み会の時など、どうしても吸いたい時は吸っていた。今は吸いたいけど、明日からまた吸わない。禁煙ではなく節煙を心がける。この方法で、普段は吸わないことに成功した。

1年ほど前に復煙してしまったけど、最近また節煙をしている。基本的には吸わない。吸いたい時だけ吸う。まわりからは、「やめたんちゃうんかー!」と言われるけれど、誰もやめるとは言ってない。減らすだけ。極端に減らす。僕の場合は、今は1日1本以下を心がけている。なかなかやめれない人は、1日2本とか、週に1箱とかを目標にすればいいだろう。やめるコツ、減らすコツは、基本的には煙草を買わなければよい。買いたくなったら我慢する。そう、究極的には我慢するしかない。まあ、いっか!と買っちゃうから吸ってしまう。買ってもいいけど、今月はこの1箱で乗り切ろうという気持ちで我慢する。わかっているとは思うけれど、やはり優柔不断な人はやめれない。

僕の場合、大きな病気をしたし、本当はやめたほうがいいのだけれど、煙草を吸うのは自分へのご褒美みたいな感じで吸っている。まあ、健康でお金に余裕のある人は吸ってもいいけど、少しでもやめようかな?と思ってる人は、節煙してみてください。


人との付き合い方

桜も満開の時期を過ぎ、葉桜の季節になってきた。

新学期。新年度。この時期は出会いや別れの季節でもある。この春から新しい学校や会社に行く人もいるだろう。新しい環境では人との出会いが欠かせない。基本的にはいい人が多いけれど、中には自分と合わない人もいる。なんだよ!こいつ!と思うことも少なくない。

僕は苦手な人ほど、自分から話しかけるようにしている。営業をしていた時もそうだった。苦手な客先ほど足繁く通う。自分の会社の商品をよく使って頂いているお客さんの場合、基本的には悪い印象はないので、付き合いやすい。しかし、あまり使ってくれていないお客さんは、やはり何かしら原因があって使ってくれていないので、煙たがれることも多い。でも、あえてそういうお客さんのところに何回も通う。そうすると、そのうち心を開いてくれるようになる。閉ざした心を一度開いてくれると、そこから急にその人に近づくことができる。まさに、懐に入るのだ。特に仕事なんかで、こちらにきつく言ってくる人は、自分に期待してくれていたり、自分が相手に頼られている場合も多い。僕も以前勤めていた会社で、いつも無理を言ってくる苦手なお客さんがいた。会社を辞めることになって挨拶に行くと、「あんたには、いつも無理を言ってたけど、いつもすぐに動いてくれたから、いつかお返ししたいと思ってたのに残念」と言われたことがあった。僕はそのお客さんがホントに苦手だったので、まさかそんな風に思われているとは知らなかった。僕は、その人の懐に入れなかったのだ。懐に入ってみると、実はいい人だったということも実は多い。SMAPの歌じゃないが、育ってきた環境が違うから、価値観や考え方が違うのは仕方がない。自分の価値観で相手を見てしまうからうまくいかない。もともと、人は自分とは違うのだと、相手の価値観を尊重することが大切だと思う。それでも、どうしても合わない人もいる。そんな時は、その人とは付き合いをやめる。嫌いになるのもパワーがいるし疲れる。無駄に疲れるのはもったいない。

逆に、お互い良い印象を持っていたのに、何かのきっかけで嫌な部分を見てしまうと、そこからどんどん相手の嫌な部分しか見えなくなることもある。夫婦や恋人との関係なんかがそうだ。お互い好き同士だったのに、これも何かのきっかけで相手の嫌な部分が見えてしまう。こんな人のはずじゃなかった、こんな人を好きになったはずじゃなかったと、好きという気持ちの反動で、相手のことがどんどん嫌いになってしまう。相手を否定することでしか自分を正当化できなくなり、そうなるともう、泥沼である。この場合も、相手は自分とは違うのだと、相手の価値観を尊重することが大切だ。

「思いやり」。この気持ちがあれば人間関係なんてうまく行くのだが、なかなかうまくいかないもんだ。


人生の頂点

今年で49歳になる。

いつまでも若いつもりが、もう還暦前のオッサンになってしまった。

僕は30代の頃から、50歳で人生の最高潮を迎えるように人生設計をしてきた。いろんな占いで大器晩成型と言われてきたし、ちょうど30代の頃にやりたいことが見つかって、とりあえず、そのやりたいことに向かって転職し、40代で実績を積んで、50歳で公私共にスーパーサイア人のように覚醒する予定だった。お洒落なジャケパンに身を包み、ロマンスグレーの髪を短く刈り込み、行きつけのバーでウォッカを嗜み、週末はサーフィンを楽しむ。30代当時の僕は、仕事もプライベートもとにかくスマートで完璧にこなすのが理想で、覚醒するまで50歳までかかるだろう、いや、50歳だからこそ漂う男の色気みたいなものに憧れを持っていた。当時読んでいたLEONの影響も大きい。あぁ、ちょいワルオヤジ。

実際には紆余曲折があって、思い通りにはいかなかったけれど、今は来年の50歳に向けて順調に歩んでいる。今年から任された今の仕事はとても面白いし、プライベートも充実してきている。このまま順調に進めば、来年の50歳は、本当に最高の50歳を迎えれそうだ。僕のイメージでは、50歳が最高潮というわけではなく、50歳から新たな人生が始まるイメージだ。僕の中では50歳からが、人生の醍醐味。まさに、ジローラモ!

今から、来年の誕生日が楽しみでたまらない。


常識なんて覆せ!

僕は最近新しいことを始めた。

何を始めたのかは事情があって、今はまだ言うことができないが、世間一般で言うところの非常識なことである。

自分でも非常識であることは認識していて、後ろめたい気持ちもあったので、友人に相談したところ、ルール違反だと言われた。しかし、ルールとはなんだろう。

僕は日本という国に住んでいるので、日本の法律に基づき、法を守ることがルールを守ることだろう。高校の頃に、見通しのよい通りで車がまったく走っていない道路を赤信号を無視して渡ったところ、私服警官に注意されたことがある。その場は、すいませんと誤ったが、「赤信号である」という理由だけで渡らないと判断するのはおかしいと、ひねくれた高校生だった僕は思ったものだった。

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という言葉があったが、今の時代はひとりでも、「赤信号」を渡るべきかどうかは自分で判断するべき時代だと思う。「赤信号」だから渡ってはいけないと単純に判断するのは危険であり、時代遅れだ。

僕が学生の頃は、いい大学に入って一流企業に入ることが、「勝ち組」とされた。ところが大学に入ると共にバブルが弾け、就職活動は「どしゃ降り」と言われ、僕の知り合いでも就職浪人するものがいた。それから30年近く経つのに、未だに必死に子供を塾に通わせる親のなんて多いことか。僕は子供を塾に通わせるどころか、勉強しろなどと言ったことは一度もない。価値観は多様化し、幸せの基準は細分化されている。

資本主義とか社会主義とか二者択一ではなくて、いいとこ取りの社会でよいのではないかと思う。家賃や教育費、医療費などはすべて無料で、最低限の生活は保証されているような社会がよい。ルンバや高級車など、贅沢品が欲しい人は頑張って働けばいい。高校までは教育費は無料で、大学は本当に勉強したい若者だけが行けばいい。僕なんか大学でロクに勉強していなかったから、無駄に授業料を払ってもらった親に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだ。僕は自分が病気をしたから、かなり、医療費がかかった。今でも病院に定期的に言ってるので、医療費もバカにならない。病気をしただけでも不幸なのに、その上生活も苦しくなるとは、なんと不公平なことか。

今、僕らが生きている社会は意味のない常識ばかりだ。他人が考える常識や他人が決めたルールに従って生きるより、これからは常識なんて覆して生きていくべきではないだろうか。


アイデアで国民は救えるか

会社帰り、最寄駅で降りると市議会議員の候補者と支援者が道行く人に声をかけ、ビラを撒いている。

今日の人は「よろしくお願いします!」、「ありがとうございます!」などと言いながら強引に家路へ急ぐ人に握手を求めている。僕はイヤホンをし、コートのポケットに手を突っ込んで絶対に握手はしないオーラを出してすり抜けた。

僕の使う最寄駅には、こうした議員さんや候補者が度々ビラを撒いたり、挨拶をしたりしている。そのほとんどが「○○です!」、「よろしくお願いします!」、「おはようございます!」、「お仕事お疲れ様です!」と言った内容だが、何をよろしくお願いするのだろう。その人が何をしてくれるのか、その人に投票することでどういう未来が描けるのかがこれでは全く分からないのに、こちらとしても投票する理由がない。

以前、三宅洋平という人が選挙フェスと銘打って東京各地で演説をしていた。僕は政治に無知だし、この場で政治的な発言をするつもりもないので、三宅さんに対して言及するつもりはないが、今の政治のどこが曲がっているのか、今何をしなければいけないのかを名前の連呼ではなく演説という形で表現していたのは印象深かった。

僕は4月から「謎のアイデア集団」というワークショップに参加する予定だが、そこで日本の選挙を変えるアイデアが出せないかと考えている。謎のアイデア集団とは、簡単に言うと団体や企業が抱える課題や問題を、みんなの知恵で解決しようという試みである。だが、世間の人が抱える問題は、このワークショップでは解決できないのでは?という疑問がある。基本的にこのアイデア集団が解決する対象にはクライアントの存在が必要である。今の世の中、様々なことで困っている人がいるが、この場合、クライアントは国民になってしまう。場合によっては、NPOなどがクライアントとなる、もしくは、企業の慈善活動としてアイデアを提供することで世の中が抱える課題を解決できるかもしれないが、そういうケースは稀で、今の世の中の多くの人が抱える問題や悩みをアイデアで解決することは不可能では?、と考えている。

毎日ニュースで傷ましい事件が報道される。一瞬心を傷めることはあっても、所詮は他人事で、次の瞬間には自分のことで頭がいっぱい。他人の死に僕らは驚くほど無頓着だ。

世の中には、本当に困っているひと、苦しんでいるひとがたくさんいる。難病を抱えて産まれてきた我が子に為すすべなく見守るしかない親や、毎日のように虐待を受け、誰にSOSを出すこともなく耐え続ける子供たちや、大切な子供を拉致され、何十年も待ち続けながら国に頼るしかない拉致被害者の家族達。

今のこの国が抱える問題は山ほどあって、解決しなければいけないことも山ほどあるのに、結局それは、この国の政治が、この社会が変わらなければならない。

果たしてアイデアで国民は救えるのだろうか?



僕の居場所

先日、息子とサッカーの日本代表戦をテレビで見ていた。小学校からサッカーをしている息子とテレビでサッカー観戦をするのがささやかな楽しみである。それほど退屈な試合という訳ではなかったが、後半に入って睡魔に襲われた。思わずコクリとしてしまった僕を息子に起こされる。息子は明らかに苛立っていた。息子の苛立ちの原因は、僕のいびきである。相当うるさいようで、息子はテレビを見ている時、勉強している時に僕のいびきに邪魔をされるのが、かなりストレスになっているとのことだった。何度も注意しているのに、なぜ聞いてくれないのか?、なぜ、自分の悪いところを直そうとしないのか?そんな父親に対して、息子が反感を持つのも仕方なかった。僕も寝たくて寝てる訳ではないし、自分のいびきがどれほどうるさいのか、自分ではわからない。しかし、その自覚の無さが、余計に息子を苛立たせているようだった。仕事で疲れて帰ってきているのだから、少しは理解してほしいと嫁さんに相談したが、そんなことは息子もわかっていて、わかっているから息子も悩んでいるし、葛藤していると言われてしまった。

僕は家族が好き「だった」。仕事が終わればすぐにでも家に帰りたかったし、休みの日には、家族と家で過ごすのが好きだった。しかし、今では、家族と会話すらない。嫁さんと子供たちは楽しそうに話をしている。でも、その内容は、学校の話がメインで、友達の名前などが出てきても僕には理解できなかった。嫁さんに言わせれば、これまでの僕の態度や子供たちとの接し方の当然の結果だと言う。何も言い返せなかったし、ショックだった。どうすれば、今の状況を改善できるのかも分からない。いつから歯車が狂ってきたのだろう。おそらくコンマ数ミリのわずかな狂いが、少しずつ僕と家族の間に溝を作ったのだろう。

今では、僕以外の家族3人が楽しそうにしているのを余所目に、僕は家でも独りで過ごすようになった。最近では、家族が集まるリビングは、僕にとって苦痛でしかない。この状況が辛くて、でも、どうすればいいかわからなくて佇んでいる。

居心地の良かった僕の家から、僕の居場所は消えた。


花宇宙

造園家の家谷さんからお誘いを受けて、味園ユニバースで開催されていた川西、花宇による植物の展示即売会に行く。

僕は花宇のことは詳しく存じ上げなくて、あのプラントハンターとして有名な西畑清順のご実家であることを当日知った。

味園ユニバースに入ると、すぐに家谷さんがいた。「なんか、おしゃれですやん」。家谷さんに観葉植物というイメージがなかったので、少し以外だった。

僕は観葉植物というものが、あまり好きではない。そもそも、観葉という言葉に違和感がある。観葉とは、要は観賞用ということでしょ?植物というものは、確かに美しく、眺め、愛でることで癒される。しかし、植物は、もともと自然のものであって、自然の中で見るからこそ美しい。それを人間の都合で室内で育て、それも、単に観賞用で育てることに違和感があったのだ。観賞用で植物を育てるって、単にファッションじゃないのか?ファッションとして建てられた建築はつまらないし、ファッションとして飼われたペットは飼育放棄され、悲しい結末になる。親の勝手で前髪をパッツンと切った子どもは、子どもがファッションの対象になり、たいがい躾が行き届いていない(個人の感想です)。

だから、今回も僕は庭で育てる植物を探しに来てて、家谷さんにも、「外で育てれるのは、ありますか?」と聞いたが、基本的には室内で育てる観葉植物とのことだった。

少し残念な気持ちで会場を覗いていると、たちまち会場の植物に夢中になっていた。今まで見たことのないような植物がいたる所にあり、そのどれもが愛らしい。しかし、これいいな!と思って値札を見ると、桁が一桁違っていたりした。珍しい植物がいたるところにあっておもしろい。不思議な形や色をした植物を見てると、ロマンすら感じる。実際、日本に自生していない植物を日本に持ち込むというのは、なかなかに難しいことのようだと、知り合いの建築家さんが教えてくれた。

結局、どうしても持ち帰りたい仙女の舞という、茎がクネクネと曲がったおもしろい植物を買って帰った。

観葉植物という言葉には未だに違和感はあるものの、室内で植物を育てるのはペットを飼うのに近いかもしれない。これまで何度も、育てやすいと言われている多肉植物やエアープランツでさえ枯らしてきたから、今度はきちんと育てよう。単なるファッションにならないように。


ラクオ

まだ子どもが生まれる前、男の子が生まれたら「楽生(ラクオ)」という名前を付けようと本気で考えていた時期がある。

読んで字のごとく、楽に生きて欲しい、楽しく生きて欲しいという思いを名前に込めた。ラクオ。また、この響きがなんとも間が抜けていてよいではないか。これが「義勝」とかだと、いかにも固い仕事について頑固なオヤジになりそうだが、ラクオだと性格もほのぼのしていそうだ。少なくとも「ラクオです」と紹介されたら、相手も思わず隙を見せるだろう。結局、長男にはラクオでもなく、キラキラネームでもなく、当たり障りのない名前を姓名判断で見てもらって付けていただいた。姓名判断で見てもらっただけあって、長男の名前は徳川家康と同じ画数で、将来大きなことを成し遂げるような良い名前であるらしい。しかも、長男は両手ますかけである。僕も嫁さんもますかけではないので、産まれてきた長男の両手がますかけになっているのに気付いた時はたいそう驚いた。そんな長男も高校生になり、姓名判断も手相も普通がよかったと言うような、謙虚な男の子に育った。

先日、「しないことリスト」という本を読んだ。世の中はやらなきゃいけないことだらけだ。勉強しなくてはいけない、仕事をしなければいけない、結婚しなければいけない、飲み会の一杯目はとりあえずビールを頼まなければいけない、王将に行ったら餃子を注文しなければいけない、などなど。しかし、一般にやらなければいけないと言われることのほとんどは、別にやらなくてもいいことがほとんどだ。合わない人と無理に付き合う必要はないし、行きたくない飲み会に無理に参加する必要もない。僕はこれから、楽に生きること、楽しく生きることに決めた。楽に生きると言っても、仕事をサボるとかではない。僕の場合、やらなければいけない仕事が溜まっているほうがしんどいから、要領よく仕事をして、なるべく早く仕事を片付けるのが自分にとっては楽だ。もともと、すぐに人と比べてしまう悪い癖があって、これまで自分の収入や役職を他人と比べてしまうところがあった。比べる必要はないと思いながらも、どうしても比べてしまうので、これからは自分が人と比べて楽かどうか、楽しいかどうかを比べることにした。と言っても、楽かどうか、楽しいかどうかは、分からないのである。楽そうな人、楽しそうな人はいる。でも、本当に楽なのか、楽しいのかは、本人でないと分からない。僕の友達で毎週のようにゴルフをして楽しそうな人がいるが、そもそも僕はゴルフをしないし、毎週ゴルフをしたいとも思わない。とにかく自分が楽だと思う、楽しいと思う方法を選択して生きていれば、人と比べた時も、自分のほうが楽かもしれない、楽しいかもしれないと思うことができる。そう考えるようになってから、心がフッと軽くなった気がした。

名前は違うが、これからはラクオとして生きていきたい。


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